HY戦争の概要
すさまじい戦いがあったようですね。
少し楽しそうだと思うのは私だけでしょうか。
ホンダとヤマハの因縁
世界のオートバイ製造第1位のホンダと、同第2位のヤマハとの間には深い因縁がある。第二次世界大戦当時、戦闘機用プロペラを製造する軍需工場となった日本楽器製造(現:ヤマハ、本項では「ヤマハ本社」と表記する)当時社長の川上嘉市は、金属加工技術に乏しく生産性が上がらない同社の状況に悩み、東海精機重工業(現:東海精機)当時社長の本田宗一郎を頼った。宗一郎はカッター式自動切削機を自作し、金属プロペラの製作時間はそれまでの一週間からわずか15分へと劇的に短縮された。嘉市は宗一郎を「日本のエジソン」と高く称賛し、特別顧問に迎えた。
戦争終結後、オートバイ製造に転換したプロペラ工場は、ヤマハ発動機として産声を上げた。ここでも嘉市は助言を求め、宗一郎がこれに応える関係は続きヤマハ創立に貢献した。当時、ヤマハ社長は本社社長を兼ねる嘉市の長男・川上源一が就任していたが、彼は若い頃から常々宗一郎の高い能力を聞かされていたため異存を持たなかった。それどころか、1977年自らが会長に退くに当たり、当時のホンダ社長・河島喜好の実弟である河島博(ヤマハ本社専務)を後任社長に据えた。このような背景から、ホンダとヤマハには地縁的同業という枠を越え、一種の蜜月関係にあると業界は捉えていた。
その一方で、川上源一は本田宗一郎にコンプレックスを持ち、宗一郎と比較されることを極度に嫌っていたとも言われ、河島博起用も自らの懐の広さをアピールするためだったとの憶測もある。
新市場を切り開くホンダ・追随するヤマハ
1970年代前半、オートバイの日本国内販売台数は年間110万台前後で伸び悩んでいた。ほぼ飽和したと考えられていたスーパーカブで切り開いた商用車を除けばオートバイは趣味的要素が強い商品であり、オイルショックの逆風も手伝い、その将来性には否定的観測が流れていた。ホンダは新たな市場として女性層に眼をつけ、1974年には二輪の開発部隊を朝霞研究所(本田技術研究所)に集約して取り組んだ。そして1976年、ホンダは新しいコンセプトのファミリーバイク(ソフトバイク)「ロードパル」を発表した。
辣腕の営業所長・網野俊賢らも開発に参画したロードパルは、「日本の街角を変える」というコンセプトの元、簡単な操作・求めやすい価格を実現するためにあえて自転車を開発のベースに据えたものだった。これに加え、運転免許を取得しやすい原付クラスであること、さらに安定成長期に入った当時の世相を背景に仕事や社交へと行動範囲を広げ始めた主婦層には持って来いの交通手段として受け入れられた。ローマ市街を走るソフィア・ローレンを起用したCMも手伝い、ロードパルは爆発的に売れた。
有望な市場を目の前に競合他社が黙って指を咥えているはずは無い。1977年ヤマハは、女性向けの機能を一段深め、スカート姿でも両足を揃えて乗車できるステップスルー式の「パッソル」を発表した。CMでは八千草薫が手軽さをアピールし、市場をさらに掘り起こした。1978年にはスズキも参入した。これら新しいカテゴリーのオートバイを利用したのは主に主婦層だったが、副次的に中年男性層にオートバイブームを巻き起こした。危険な乗り物・暴走族の乗り物というイメージが付きまとうオートバイへの距離を、お洒落に乗りこなす妻の姿に刺激された夫が興味を持った事、大型自動二輪車免許交付において中年層に対しては比較的簡単に認められた点などが後押しし縮めた。こうして、オートバイ生産は活況を呈し、1976年には130万台、1977年には160万台、1978年には198万台と、ファミリーバイクを中心に順調な伸びを示した。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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